奥秩父縦走

 出発の朝、私は酒がはいっていた。

 良識を麻痺させようとしていたのだ。再就職やら勉強やら将来設計を真面目に組み立てなければならない時期であるのに、今日から4日間を遊びに費やそうとしている。それを私の中の良識はクロと判定していた。夜中に準備をしているときも、遊んでいる場合ではない、大丈夫なのかお前、という内なる声が聞こえてきていた。そのたびに、やっぱりやめようか、といちいち手を止めてしまっていた。

 度重なる良識的な内なる声にうんざりした私は、酒の力に頼ることにした。テントの中で飲もうと思っていた焼酎をザックから引っ張り出し、少なくない量を空っぽの胃の腑に流し込んだのだ。間もなくほろよいが始まり、朗らかな気分とあいなった。まあ、きっとなんとかなるって。ここまで準備して行かないなんてありえないって。お酒は私の決断を背徳的に後押ししてくれているようだった。

 こうなればあとは出発するだけなのだが、ひとつだけひっかかる問題があった。着替えのパンツがなかったのだ。計画では山をおりたあと、温泉で汗をながすことになっている。このまま出発すると、汚いパンツを履き続けるはめになる。実をいうと、洗濯済みパンツの在庫がないことは準備をすすめていた夜中のうちに気づいていたのだが、ずっと同じパンツってネタになるかな、などとあまり真剣に考えず、この問題は先送りにしていた。だが出発間際のこの段階にいたり、ようやくどこかで早急に安く入手する必必要性に気がついた。体は綺麗なのにパンツだけ汚いというのはアンバランスだ。といより不潔だ。でもどこで入手するか? お酒を飲んで、いい具合に頭が冴えていたのだろう、私は早朝から営業している作業用衣服専門店が自宅のそばにあることを突然パッと思い出し、ウェブサイトで速乾性がウリのパンツが販売していることを確認するやいなや、急いで買い求めに走ったのだ。電光石火の動きだったといえる。

 帰宅後、着替え袋の中に買ったばかりのパンツを小さく畳んでねじ込み、その袋をまたザックの隙間にねじ込んだ。焼酎もザックにねじ込んで、準備は完了。あとは出発するのみ。この段階にいたってまたしても行くか行くまいかの逡巡が始まった。だが、良識的な内なる声は以前よりも控えめになったようで、ザックを背負って自宅を出るまでにあまり時間はかからなかった。

 奥多摩駅の駅舎を出ると小雨がぱらついていた。マジか。あらかじめ調べた山岳天気予報によると、奥秩父の天気は晴れときどきくもりのはずだが… 今回はスマホの予備電池を自宅においてきてしまったので、山の上でネットに接続はしないと決めていた。だから途中で天気予報を確認することはできない。また、在京連絡人と定期連絡をするために電池をキープさせておく必要があるので、カメラとして利用する頻度も少なくしたかった。なので行動中は電源をOFFにしておくことにした。翌日の天気予報が全然わからず、スマホ自体もあまり利用できないという状況は、少し私をわくわくさせた。山で携帯を利用することがめずらしかった学生時代のようだった。

 バスで登山口まで移動していると晴れ間が見えてきて安心した。

 雲取山登山口でバスを降り、待合室で準備をしていると、ひと仕事終えたような汗だくの人が入って来てベンチに腰をおろした。時刻は昼過ぎで、出立の早い人はすでに下山する時間帯である。私の出発は遅かった。昼過ぎに出発するなど、登山の常識ではありえないのだ。登山口から目的地の奥多摩小屋へ向かう尾根を登っている最中も、続々と人が降りてくる。まあ、日没までに着ければいいや、いまの時期はすごく日も長いし、などと考えていた。いたって楽天的なのである。

 奥多摩小屋には日没の2時間ほど前に到着した。テン場には3張のテントが立っていて、外で3人の人たちが立ち話をしていた。挨拶をして、彼らの横を通り過ぎ、小屋で手続きを済まる。今回はひとりを楽しみたいので、彼らから割と遠目のテン場にて、テントを設営した。久々のテント泊である。薄い布一枚へだてた空間は、私が主の絶対領域だ。といってもやることは炊事と晩酌と読書くらいなのだが。夕食は米を炊くことにしていた。これまた久しぶりでうまく炊けるか少し不安だったが、大学生から変わらない私の米炊き方法はいまでも現役で通用するらしく、ほくほくのお米が炊きあがった。うーん、いいね。おかずはふりかけのみ。2合炊いたうちの、1合を晩飯に、もう1合を朝飯とする。

 夕食をすませ、お酒をのみ、寝袋にくるまっていると、何やら外で音がした。人の足音ではない。まさか熊ではあるまいな。ベンチレータから様子をうかがうと薄暮のなか、2,3mほどしか離れていないところで鹿が草を食んでいた。ぶつっ、ぶつっと草が千切れる音がする。普段臆病なくせに、夜になるとテントにここまで近寄ってくる。一匹ではないらしく、その夜、私のテントの周囲からは鹿の食事の音がぶつっ、ぶつっと響き渡っていた。都会ではありえないBGMを聞きながら私は眠りについた。

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 2日目の朝はよく晴れていた。テントを撤収して、雲取山へ向かう。早朝の山頂からの眺めは雄大だった。尾根には朝日があたり、沢には影ができている。

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ここから進行方向の稜線は森に覆われている。コンパスで最初の目的地である飛龍山を同定し、その距離感を見やった。なかなかだ。ここから本格的な奥秩父縦走が始まる。

 飛龍山に向かうルートの両脇には、太ももくらいの高さにまで笹が育っていた。葉についた露がズボンと靴をぐっしょりと濡らす。初日と今日の朝に通ってきたルートとはうってかわって細い道だった。展望はなく、ときどき木の間から左手の様子が見てとれる程度である。笹のがさがさと擦れる音を聞きながら、ひたすら目的地を目指した。

 縦走路上に飛龍山はない。飛龍山を少しすぎた分岐点から、稜線にあがっていかないと飛龍山のピークに立てない。私は分岐点で休憩をしながら行こうかどうか迷った。このときすでに、出発が遅いことを自覚していた。この日の最終目的地は、甲武信ヶ岳山荘か雁坂峠だった。そして、それが無謀であることは休憩時に地図のコースタイムをちらちらとみているうちに気づいていた。ろくに行動計画を立てていないので、飛龍山へのピストンで消費する時間があとの行程にどの程度影響するのかを正確に把握することができないでいた。まったく無計画とはこのことである。

 結局、「折角だから」とかそんな理由で飛龍山の頂上へ向かったのだと思う。何の変哲もない頂上について写真をとって、すぐに分岐点に戻った。

 分岐点から少し歩くと、尾根の樹林帯から突き出た禿岩(ハゲイワ)という岩場があった。とても展望の良い場所だった。禿岩から望む奥多摩の森は見事。見渡す限り、深い緑色の山肌がうねりとなって広がっていた。ところどころに雲が落とす黒い影がはりついている。街の姿など見えよう筈もない。この山域がとても山深い場所であることを改めて実感した。沢の音に耳を澄ませ、そよ風を感じながらしばし見入っていた。

 将監峠の直下に立つ将監小屋で昼飯とした。外は良く晴れていて気持ちがいいのだが、いかんせん日光が暑い。母屋の正面にある物置小屋のようなところに、テーブルと椅子があったので、そこで食事を作ることにした。

 食事を終えて、地図を眺めた。この先は、稜線沿いに小さなピークをいくつか越えて歩いていくルートと、それらの小さなピークを避けて同じような標高で斜面を歩いていくトラバースルートの2択がある。しばらく考えて私はトラバースルートを行くことに決めた。今日中に予定通りの目的地へ到着するには、先を急がなければならない。先は長いのだ。目的地へつくことが優先で、小さなピークこだわる必要はないと考えた。

 準備をして出発しようとすると、小屋の脇に掲げてあるルート案内図のような看板が目に入った。この先、どうやら通行不能なルートがあるらしい。よく見ると、私が今から歩こうとしているトラバースルートの一部区間が崩落していて、その復旧作業のために通行止めになっているとのこと。先を急ぎたかったのに、あらかじめ選択肢は稜線沿いのルートしかなかったのだ。

 将監小屋から将監峠に登りあげ、西へルートをきる。

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 今日はどこまでいけるだろう。将監峠をすぎたころから休憩時に地図とにらめっこする時間が多くなった。いちいちコースタイムを頭の中で計算するのだ。その結果、当初、甲武信ヶ岳山荘までいこうぜ、などと考えていた自分がいかに何も知らなかったかがわかってきた。雁坂峠ですら、厳しい時間帯だ。たぶん、笠取山でテントだろう。

 私は、この日のうちに雁坂峠までいかなければ、明日の行程で目的地である大弛峠までたどり着くことは時間的に不可能だと勝手に考えていた。だから、笠取山荘でテントを張ることに決まりそうなとき、慌てて明日の所用時間を地図から計算した。その結果分かったことは、奥多摩小屋から笠取山荘までの所要時間と、笠取山荘から大弛峠までの所要時間があまり変わらないということだ。すなわち、笠取山荘でテント泊したとしても、今日と同じくらいの時間を歩けば、明日は大弛峠まで到着できるということ。今日、笠取山荘で幕営したからといって、計画が遂行できなくなるわけではないのだ。それに気づいた私は安心した。

 笠取山周辺の南斜面は多摩川の源流域の森である。なかなかいい雰囲気で、笹の海の中に木立が間隔をあけてそびえている。この笹の海を漕いで彷徨してみたい。多摩川源流に魅せられた人らの本も出版されているので今度、読んでみよう。

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 ルートはやがて多摩川の最初の一滴が始まる沢の源頭部を通過する。なぜそれがわかるかというと、案内の柱が立っておりそこが正真正銘の源頭部であることを示しているからだ。小さな岩の隙間にあるその空間は水干という名称で呼ばれていて、何やら神聖な雰囲気さえ漂っているように思えた。私はもっとわかりやすい多摩川の最初の一滴を見ようと、沢筋に降り立った。ちょろちょろと流れる小川は、これから都市の人々の喉を潤すような大河川になっていくようには見えなかった。源流の多摩川はあくまで山の中の小さなせせらぎである。

 源流部を特徴付けるランドマークはまだ終わらない。ルートをさらに歩くと小さな丘をたたえた草原があらわれた。丘には三角柱の石碑が立っていて、側面に「多摩川」「富士川」「荒川」と彫り込んであった。この丘はみっつの分水嶺という名称で、文字通り三つの大河川の分水嶺となる場所なのだ。案内板によると丘の南側にふる雨は多摩川へ、西側は富士川、北側は荒川へと流れ着くとのこと。こんなところでノグソなどするものではない。

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 退屈な道程だったが、終盤で見所が続いてなかなか楽しかった。この丘を南にくだれば、今日の幕営地である笠取小屋にたどり着く。

 笠取小屋の扉は鍵がかかっていた。受付をしてくれる管理人は、週末のみ駐在なのだろう。今日は、誰もいない山の中でひとり幕営である。のんびり本でも読みたいところだが、そこそこ疲れていたし、テント設営中に降り出した雨に気分があがらないこともあって、米を炊いて食事をしたら、すぐに寝てしまった。雨は夜中に目覚めたときにもやんでいなかった。明日の天気は大丈夫だろうか。

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 翌朝、目がさめると雨は止んでいた。今日は大弛峠まで歩かなければ最終日に金峰山から川上村へおりるという計画を遂行することはできない。大弛峠のひとつ手前の甲武信ヶ岳小屋から大弛峠のあいだは長い道のりで、ペースが思うように上がらなかった場合、この区間で日没を迎える可能性は十分にある。その場合、ヘッ電歩きとなることだろう。最悪ビバークだ。どちらもいやだった。だから早めに出発するべきだったのだが起きるのが遅く、また、本当は夜のうちにすませる雑事も朝に回していたため、結局出発するころには6時を回っていた。

 このあたりまでくると1日目の雲取山周辺とはやはり雰囲気が違う。朽木を苗床にして菌類やコケ類が繁茂している柔らかい地面で休憩したり、鹿が10mほど先をぴょんぴょん跳ねながらルートを横切ったり、立ち枯れが墓標のように林立する箇所を通ったり、より深い森を歩いていることを実感する自然環境になってきている気がした。

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 もちろん縦走路自体はメジャーなので休日であればすれ違う人や同じ方向を目指す人もいるだろう。だが、なんといっても平日である。また、そこそこ雨も降ってきているし、周囲はガスが漂っている。こんな天候の日に山に出かけてくる人はいないだろう。雨天の単独行だったが、気分はよい。単独行をするときはいつも、何かあったらどうしようという不安がつきまとうけれど、今回は一人であることをそこそこ楽しんでいる自分に私は気づいていた。さすがに甲武信ヶ岳山荘には小屋番がいるだろうがそこまではひとりで気楽に楽しもう。

 そう思いながら歩いていたので、破風山避難小屋で登山客と出会った時は心底驚いた。向こうも同じだったようで、お互いに顔を見あわせて「おおお!」という声をあげた。お互いが珍獣を発見したかのようである。挨拶をして、天気の話やこれからの行程のことなどを話し合う。甲武信ヶ岳山荘で1泊して今日には下山するらしい。天気に合わせて休日が取れたらいいのに、と面白いことを言っていた。この人も下界では立派に仕事をして、業務の合間にインターネットで山行予定日の天気を眺めては、一喜一憂するタイプの人種なのだろう。昔の私のように… 雨が少し小降りになってそろそろ出発しそうな気配が見えたので、「ガスが晴れて展望が臨めることをお互い祈りましょう」と声をかけると「そうですね」と笑い、朗らかに挨拶をして出て行った。

 私もだらだらとしている時間はない。しばし休んでから甲武信ヶ岳山荘に向かった。ふたたびひとりの時間である。

 甲武信ヶ岳山荘に到着し、昼飯の準備をしていると青空がのぞき始め、日も出てきた。小屋番の親父も出てきて、「日が出てきたな」と独り言のようにつぶやいた。私のザックを見て「テント張るのか」ときいてきたので私は目的地を告げた。すると「大弛までいくのか」と、この先長げぇぞ、とは言わんばかりの口調で答えた。時間は13時が近い。親父は何も言わずにその辺をウロウロしながら空をながめたりしていたが、この先のコースタイムや地形は熟知しているはずで、日没間際にはつけるかもな、とか、もしものことがあってもテント装備もあるしビバークもできるし、といったことを考えているのかもしれなかった。

 昼飯を終え、コーヒーを飲み、甲武信ヶ岳の山頂から帰ってきた登山客と話していると親父も会話に加わった。ふと、親父は「あんまり遊んでっと行き着かねぇぞ」と唐突に言った。だから、それが私に向けられた忠告だと気づくのに10秒くらいかかり、私はまともに返答できず、「確かに」と親父の方も見ずに独りごとのように呟くことで了解の意を示した。自分自身の拙いコミュ力を悲しく思いながら、私は出発した。

 日没までには大弛峠に辿り着いておきたい。地図のコースタイム通りに歩いていては、とても日没には間に合わないので、なんとかスピーディに進みたい。幸いここからのルートは距離こそ長いものの、アップダウンはそれほど多くない。登りは無理せず、平坦な箇所は早歩きで、下りは小走りで進めば、まあ、なんとかなるのではないか。ルート終盤の国師ヵ岳へ至る標高差300mの単調な登りは少し面倒だが、その登りに取り付くまでは、スピーディに進めそうであった。

 甲武信ヶ岳の山頂を通過する頃から、雨足が1時強くなって不安になった。しばらく歩くうちに小降りとなったので安心したが、ろそろ夕立がやってきてもおかしくない時間帯だ。危険箇所などないこのルートで、強いてリスクをあげるとすれば歩みが遅くなり目的地に行着かないとか天候悪化のため転倒して怪我をするといったことだろう。夕立はこれらを引き起こす原因となりうる。まあ、暗くなって行動したくなくなったらビバークすれば良いのだけれど。

 歩みは快調だった。雨も小降りとなり、左の西沢渓谷のほうへ顔を向けると、晴れ間さえでている。よしよし、ついているぞ。そして休憩中、行動食を頬張りながら休んでいると、太陽が降り注いできた。太陽のパワーは絶大だ。鬱蒼とした雰囲気だった原生林をあたり一面に光が漂う神秘の森に姿を変える。日光は水分をたっぷり含んだ地面から水蒸気を放出させる。水蒸気はもやとなって太陽光を発散させながら樹間をゆったりと漂い始める。日が森に差し込んでから、そんな変化が出るまでにはあっという間である。

 そして私は妖精を見た。光の奥からティンカーベル並の可愛い小さな羽の生えた女の子が飛んできた。言葉は話さないが、その仕草から一晩の契りを交わしましょう、と伝えているのが私にはわかる。私は妖精に誘われるままに森の奥へと分け入っていった… というのはいま思いついた妄想。実際は、行動食があと何個、コースタイムの何割の時間で歩いているのか、など現実的な心配ごと真面目に向き合っている。現場で妖精を妄想できるようになったら世捨て人も上等だろう。現実的な心配事として妖精と真面目に向き合う日は、まだまだ先な気がする。

 国師が岳への登りをこなし、頂上についたときはすでに午後6時半だった。日没はもうすぐだ。

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 ここまでくればもうあとは下るだけ。だが、この下り道は大弛峠に車できた人のための木の階段がこしらえてあり、非常に歩きにくい。滑るわ、自分のペースで歩けないわで、それまでの疲労も加わり「余計なものつくってんじゃねーよ!」と誰もいない空間にストレスをぶちまけた。大弛峠には19時前に到着した。

 テントを設営して、中に入ってしばらくすると、大雨が降ってきた。米をたくのが面倒くさくなり、1袋余分に持ってきていた辛ラーメンで夕食をすませた。テントの生地を叩く雨音はますます激しくなってくる。夕立ではなく、これは本降りだ。衣服は今日1日の行程ですべてびしょ濡れで、とても着れたものではない。私はテント内でパンツ一丁となっていた。ガスランタンがあれば、多少は乾かすことができるのだが、あいにく装備の中には入っていない。大学時代、臭いがテント内に充満することも気にせず、みんなでガスランタンに靴下を掲げていたことが懐かしく思われた。ろうそくに火を灯して、靴下をためしに掲げてみたが、染み込んだ水分が暖かくなるだけで効果はなさそうだった。寝袋にくるまったはいいものの発汗した水分が寝袋の中で結露し、繊維が濡れて保温効果がない。ときどき下腹に力を入れて「うー」とか「あー」とか声をあげながら寒さに抵抗する。あまりにも不快だったため、気休めにろうそくを灯して手をかざしたりしながら、私は眠れぬ夜をやり過ごそうとした。やっぱり焚き火だ、焚き火のスキルが必要だ、とうつらうつら考えていた。

 ちなみに、下の画像はこの日20時の雲の様子である。なぜか、わりと狭い範囲に限定して真っ白い雲の領域が出来上がっている。大弛峠だけに限らず奥秩父縦走路はこの真下だ。この雲が、超不快な夜を演出したのである。

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 ほとんど寝れずに、朝を迎えた。雨はやんでいた。ベンチレータから外をのぞくと、どうやら晴れている。快晴といってもいい。だが、出発前の気分は重い。今日身につけるべき衣服を触るとまったく乾いていない。ズボンも、シャツも、靴下も、靴も、何もかもきのうの夜のままである。こういうとき、外に出るのが本当に億劫になる。昨晩は米を炊かなかったので朝飯もない。私は、これはどうも非常時っぽいよな、と心の奥底のほうで感じていたので非常食のカロリーメイトゼリーに手を出した。

 だらだらと撤収作業を終えて出発。今日は最終日だ。この日は前日にくらべれば、行程も短く、晴れていれば展望が良好なルートを後半部は通る。金峰山あたりがその区間で、奥秩父縦走路の中でも唯一といっていい森林限界を超える領域である。

頭上は爽やかな空がひろがっているが、自分の足は相変わらずぐしょぐしょで不快であった。昨晩テントで確かめたところ、両足の小指は擦れて真っ赤になり、体液がにじみ出ていた。また左足裏の真ん中あたりには拇指丘にそって細長い水ぶくれができていて、歩くほどに傷んだ。濡れた靴の中では、足は水分を吸って皮膚が柔らかくなり、それが摩擦を失った濡れ靴下とよく擦れて水ぶくれができやすいのかもしれない。

 途中の朝日岳から金峰山の方面を望む。どこまでも続く樹林帯の向こうに岩が露出したピークが見えていた。五丈岩と呼ばれる金峰山を特徴づけるランドマークだろう。眼下に広がるジャングルと言っていい樹林帯は誰か探検したことがあるのだろうか。

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 朝日岳から1時間弱歩くと、ルートは森林限界を超えた。斜面にはハイマツがはえ、稜線は石灰岩でできた大岩が立ちふさがる箇所が多くなる。展望は良好だ。瑞牆山の奇巌城然とした異容もなかなか見応えがあった。しばらく進んで大岩のトンネルをくぐると、そこが金峰山の頂上であった。だが、先客がいた。

 頂上では何かの撮影が行われていた。岩に山ガールが腰掛け、前方のカメラに向かって何事かを嬉しげに話している。彼女は太陽光を反射する板の脇にいる。また、でかい房を先端につけた棒をかかげている人もいる。そしてそれを遠巻きに見る業界人のような人たち。テレビのロケで見るあの風景である。山ガールは、宇多田ヒカルなのではあるまいかと期待したが、違った。

 仕事熱心な彼らは挨拶などせず、ロケの様子を凝視していた。私は、一応邪魔をしないように頂上から脇にそれた岩場をこそこそと通過した。ランドマークの五丈岩はもう少し離れた場所にあるし、その手前はテニスコートくらいはある広場になっている。そこで休憩すればよろしい。

 広場の前の適当な場所にザックをおろすと、ここまで無事に辿り着いたことを寿いだ。いやーやっとついた。太陽はさんさんと降り注いでくるので、きのう乾かすことができなかったシャツやカッパ、防寒着などを近くの岩の上に広げた。その後、五丈岩を登るため、鳥居をくぐる。五丈岩は大岩がゴツゴツと寄り集まってできた岩の集合体だ。全体的に7~8階建てのアパートくらいの規模はあるだろうか。屋上にあたる部分は平坦で、高いところに強いひとなら、登って展望を楽しむにはもってこいだろう。私はといえば途中で断念した。忘れていたが私は高所恐怖症なのだ。ロケのカメラがこの岩の方向を向いていないことは確認しているので、途中までよじ登って、断念しておりてくる姿が山ガールの背後に写り込んでいることはないだろう。

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 ロケは何度もテイクを重ねているらしく、同じようなセリフが岩を登っているあいだも何度も聞こえてきた。「私は負けず嫌いなので、何かを乗り越えるということが大事だとおもって…」「この山は森の上に岩が乗っているという感じで…」などなど。ローカル番組の山梨百名山登頂特集、そのクライマックスにて登頂の感動を語る、といった感じだろうか。よく通る爽やかな山ガールの声を聞きながらもとの場所までもどってくると、たくさんのアブが乾かしものの周りをブーンと飛び回っていた。

 長めに休憩をしていると、他の登山客もやってきて頂上のロケを見つめた。ひとりのおじさんは頂上を見やり、「どうぜ小屋泊まりでしょ、アレ」と皮肉を言った。まあきっとそうだろう。この人とは、金峰山から次の目的地へ向かうときにスライドした。そのとき雲取山から縦走してきたことを伝えると、「いいですね、奥秩父全山縦走といった感じで」と感心してくれたものの、「大弛峠から出てきた割にはのんびりしてるね」とか「その割には荷物小さいねぇ」とか「3白4日の割には綺麗だねぇ」と皮肉の矛先は私にも向けられた。知識は豊富そうで会話をしていても飽きなかったが、次にどんな皮肉が降りかかってくるかわからない。私は足早におじさんとの距離を開けた。

 金峰山からのルートは、ぐんぐんと高度を下げて再び樹林帯に突入する。そして大日岩という巨岩地帯で、メジャールートと分かれマイナールートに入った。目指す目標は小川山だ。頂上にいたるには原生林の中の人通りの少ないルートをゆく。ここが私のこの山行のクライマックスなのだ。長い縦走路を歩いた先にある原生林に囲まれたマイナーピーク。すごくそそられる。まずは八丁平という原生林のなかのポイントを目指し、シャクナゲの枝をつかみ、蜘蛛の巣を掻き分けて、原生林に分け入って行った。藪漕ぎとは程遠いが、それでも雰囲気はなかなかいい。

 八丁平手前で、川上村方面のルートと小川山方面のルートの分岐が現れた。例のごとく時計と地図を見比べて、帰りのバスに間に合うかどうかを頭のなかで計算する。時間は11:30である。皮肉おじさんの言う通り。今日に限らず、この山行では出発時にのんびりしすぎていた。日の出前に行動を開始していれば、行動終了の目安を日没にするなどということはせずに登山の常識である15時に設定できる。一応、単独行のため夜明け前後のクマがよく出没する間を避けて行動しているという理由もあるにはあったが、クマ鈴はつけているし、要するに早起きするのが面倒臭いというのが一番の理由であった。

 今から小川山へ行くと、確実に川上村で足止めだ。ヒッチハイク信濃川上駅に乗せて行ってもらうという荒技も選択肢として考えられるが、このときそんな気力はなかった。私はクライマックスを残したままエスケープすることを決めた。

 ひとたびエスケープを決めると、一気に気分が楽になる。途中、道が沢筋におりる箇所があり、そこはトロ場となっていて休憩に適した場所だった。私はザックを放り出し、靴と靴下を脱ぎ捨てて、水流に両足を浸した。水はびっくりするほど冷たく、5秒もすれば感覚がなくなってくるほどだ。夏本番なのにこの冷たさはすごい。最初は裸で飛び込もうかなどと考えていたが、そんなことしなくて良かった。

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 下山路に復帰し、自分の歩き方を少し点検してみるとやはり左足が痛いのを無意識にかばっているせいか、重心が右に右にずれていくようだ。ルートは沢の左岸(上流から下流を見て左側)にあり、右側は沢を見下ろす斜面になっている。油断すると右足を地面についたタイミングで道と斜面の境目にある、葉っぱや土がやんわりと積もったやわらかい部分を踏み抜きそうになる。注意が必要だった。

 そして案の定というか、ずっこけて滑落しそうになってしまった。沢に向かって傾斜する岩肌がルートに露出していて、手すり代わりのロープが上の方に渡してある。左手でロープをつかんで慎重に足を運び岩肌をやり過ごしたが、あと一歩のところで足が何かに引っかかって、不安定な姿勢のまま勢いよく右足をルートに踏み出してしまった。勢いづいた体は右足だけで止めることはできず、さらにザックの重みが振り子になって、沢の方へ空中をひきずられていった。まずい。恐るべき力学的現象に抵抗しようと「ウォー」と雄叫びをあげるが、何の効果もなく、沢のほうへ私は投げ出されていった。だが、間もなくシャクナゲのヤブの中に突っ込んで止まった。慌てて体を起こし、突っ込んだときにちらりと見えたヤブの下を改めてのぞき込んでみた。そこは斜面ではなく3mくらいスパッと落ち込んだ小さな崖になっていて、下には硬そうな岩だか朽木だかが横たわっていた。シャクナゲの支えがなければ、打ち身程度の怪我はしていた可能性が高い。それにしても、危機的状況に際して、「ひゃあ!」とか「アア!」とか情けない声ではなく、「ウォー!」という威勢のよい雄叫びをあげることができて良かった。そんなことを考えていた。

 ルートは工事現場の建屋がある駐車場で終わっていた。ここからは林道歩きである。金峰山荘までは1時間程度の距離だ。足が痛いので、とぼとぼ歩いた。ザックを枕にして大の字で林道の脇に寝っ転がったり、沢の水流を眺めたりして歩いているうちに、金峰山荘に到着した。この辺は快適そうな草地がひろがるキャンプ場である。また、ロッククライミングのメッカでもあり、今日も平日だというのに斜面に屹立する岩肌をロッククライマーらが登攀していた。私は自販機でコーラを買い、ぐびぐびと飲み干し、スマホで無事に下山したことを在京連絡人にメッセージした。あとは、川上村を歩いてバス停に向かうのみだ。

 最後の楽しみは、八ヶ岳山麓の高原の雰囲気を味わうことにある。

 金峰山荘からバス停がある集落までは約1時間ほどの歩きとなる。相変わらず水ぶくれが痛むので、びっこを引いたような歩きになる。車道をひいこら歩く私の横を車が勢いよく通り過ぎていった。昨晩の寒さがジョークだったと言わんばかりに、青空はひろがり、雲はわきたち、太陽は降り注いできて、暖かかった。左手には小さな山々が並んでいて、斜面がこちら側になだらかにおりてくる。斜面は、今歩いている車道を挟んで右手側へ続き、森となって沢まで続いている。左手の日当たりの良い斜面は高原野菜の畑となっていて、長い畝がいくつも並んでいた。ふりかえると、いかつい岩峰群が奇巌城(裏)のようにそそりたっている。裏瑞牆の威容だ。こんなところで野菜を耕しながら暮らすとどんな、内的変化が訪れるのだろう。1年くらい時間があれば体験してみたいのだが、そんなことしたら街の生活にはきっと戻れないだろう。

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 道路の右側に鎮守の森が見えてきた。バスまではまだ時間がある。地図で神社とバス停が1kmも離れていないことを確認していたので、神社の敷地で乾かしものでもしようと思っていた。この距離なら歩いても苦にならないだろう。バス停前には広場もあるだろうからそこでやればいいのだが、神社の敷地を借りるということが旅を彩る素晴らしい要素であるように思われた。道路に面した草地の土手にテント、雨具、防寒着、靴下、靴、インソール、シャツ、などをこれでもかと並べていく。神社だし、誰の土地というわけでもあるまい。ちょっと場所を借りてるだけです。バチなんて当たらないだろう。色とりどりの道具や衣類を出店のように並べはじめた客人を、車に乗ったひとたちが怪訝そうな顔でちらりと見ては去っていった。

 ザックに腰掛け、余った焼酎を飲み、ほろ酔いで本など読みながら過ごした。そしてこういう風に思っていた。旅人になりたい。旅を記録にして文章にして生きていきたい。どこかの雑誌に旅の記録を掲載して、いくばくかの原稿料を得て食っていくことができたらマジ最高だ。大した記録じゃないだろうが、きっと楽しんで読んでくれる人はいるはずだ。そんなに稼がなくてもきっと大丈夫。多少切り詰めて生活すれば、贅沢はできないかもしれないが生きてはいけるだろう。生活費のかかる都会ではなくて旅をしながら生きていく旅人なのだから。辛いことがあっても大丈夫。今回だってひどい雨にやられたし滑落しそうになったけど、今はほら、こんなに気持ちがいいじゃないか… こんなに太陽は暖かくて、蝉の鳴き声が聞こえて、風はそよいでいる。私は今の立場と身分を忘て、川上村ののどかな雰囲気にとっぷり浸りながら時間を忘れるほどの多幸感を味わっていた。 

そう、時間のことなど忘れていたのだ。ふと時計を目にするとバスの出発まであと20分ほどしかない。私は慌てた。出店をすべて元どおりにパッキングし直して、バス停にたどり着くのにはぎりぎりの時間だ。いや、かなりの確率で間に合わない。のんべんだらりと過ごした時間のツケは現実的な課題に向かうときに心理的圧迫感という一番いやな形でかえってくる。それはよくわかっていた。でも、だってほら、気持ちがよかったのだもの。私は刹那的なラクに流される自分の性根を嘆きながら、全然乾いていない靴下と靴に足を入れ、散らかった道具を急いでパッキングした。

 バス停は、今自分がいる土手に面した車道ではなく、神社を挟んで反対側の道路をしばらく進んだところにある。目の前の車道を通った場合、神社のスペースの分だけ回りこむ必要があり時間がかかってしまう。ただ、神社はふたつの道路に挟まれた場所にあるのだから、反対側の道路からもアクセスする参道があるはず。そもそもそういう打算があって、ここで乾かしものをしていたのだ。でも参道がなかったらまずいよな。私は空身で神社の奥へ進んで偵察してみた。すると確かに参道が森の奥へ続いていて、それは目標の道路に降りていきそうだった。私は急いでザックを担ぎにもどり、参道を駆け下りた。

 無事、道路に降りたあとも民家の間を重荷に喘ぎながら走るほかない。なかなかのピンチだ。バスを1本待つという選択肢はありえない。ほろよいで、決断力と行動力に富んでいた私は賢明にも、間に合いそうなら間に合わせるという常識的な決定を遵守する常識人となっていた。参道を通ることができたおかげか、バス停がある広場には、発車前に辿り着いた。ザックをおろし一息ついていると、間もなくバスが広場に入ってきた。

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 30分はバスに揺られただろうか。信濃川上駅に着いた。学生時代にも一度来たことがあるが、その時の記憶はすでになく、駅舎がどんな雰囲気だったのかなんて覚えていなかった。木々に囲まれて雑草が生い茂ったなかに、小さな建物がひっそりと佇んでいる。そんな侘び寂びのイメージを勝手にこしらえていたが、到着してみるといたって普通の駅舎だった。こぢんまりとした駐車スペースが駅の正面にあり、ちょっと歩くと自販機コーナーがある。

 窓口で小淵沢駅ゆきの切符を買う。待合スペースには、この時期は火が消えて置物となったストーブと、それを囲むベンチが乗客を迎える。壁には数々のポスター類が貼られている。窓から差し込んでくる西日がいい風情を醸し出していた。写真をとり、ホームに向かった。

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 このあと甲斐大泉駅で途中下車して温泉を楽しむ予定だ。終点の小淵沢駅ゆきの切符を買ったのは、ワンマン電車の運転手さんは優しいので、途中下車してからの再乗車を許してくれることを知っていたわけではない。単に買い間違えただけの話である。だから、甲斐大泉でで電車賃を払うときに事情を話したところ「別にいいよ」と言ってくれたときは、助かったと思った。

 甲斐大泉駅から温泉までは徒歩で5分程度で到着した。温泉を存分に楽しみ、すべての衣服を真新しいものに着替えた。もちろんパンツもだ。ここで、濡れたパンツにふたたび足を通すようなことがなくて本当によかった。

 アイスを食べてしばらくくつろいでいると、もう時間だ。私は、相変わらず重いザックを背負い、温泉を出た。温泉の駐車場を歩いていると、ちょうど車から出てきたおじさんがこちらを見て、にこにこと近づいてきた。「山行ってたのかい?」と。なんとなく親近感を感じる話し方である。私は安心して「はい、テントで縦走してました」「テント! いいねぇ〜」私の格好をみて相好を崩すおじさん。でも、この人はだれ? 「わたし、山岳会にいたから、君みたいな格好をした人を見ると話しかけたくなるんだよ」「おお、今でもどこか行かれているんですか? どこにいらっしゃたんですか」「いや、◯◯山岳会っていうところにいたんだけど、今はもう引退しててね。でも明日あさってと上高地にいく予定なんだよ」おじさんは著名な山岳会の出身だった。退役軍人が現役兵士を見て昔を懐かしむ感じなのだろうか。悪い気は全然しない。「君はどこかの山岳会?」「いえ、昔は会のようなものをやってましたがいまはソロです」「昔だなんて! まだ若いじゃないか」なかなか楽しくなってきた。「どこから来たんだい」「雲取山から3泊4日かけてきました」「えー! 雲取山から! いいねぇ〜!」

 会話がひと区切りすると、お互いに挨拶をして別れた。それにしてもお酒を飲みそうなおじさんだったな。私は、おじさんの「いいねぇ〜」をリフレインしながらそう思った。

 いいねぇおじさんと交わした会話が、この山行で他の人と交わした会話のしめくくりだった。山へ行くこと。泊りがけで縦走すること。そんな私の旅を褒めてもらい、これまでの行程がうまくまとまったような感じだ。絶妙なタイミングで現れたいいねぇおじさんは、ひょっとしたら八ヶ岳の高原に現れた妖精だったのではあるまいか。

 そんなわけないか。

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